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【インタビュー】建仁寺塔頭両足院 副住職・伊藤東凌

        建築史家・井上章一

  失われるもの、遺すもの

建仁寺塔頭両足院 副住職 伊藤東凌氏に聞く

聞き手:菱田吾朗、中村文彦、野間有朝、渡邊雅廣、春日亀裕康

2019.7.30 於 建仁寺塔頭両足院

建築史家 井上章一氏に聞く

聞き手:菱田吾朗、中村文彦、野間有朝、渡邊雅廣

2019.8.2 於 国際日本文化研究センター

様々な歴史が重層的に堆積してきた京都。

変化し続ける都市のなかで何が失われ、これから何を遺していくべきなのか。

今後の京都について改めて考えるべく、伊藤東凌氏、井上章一氏の2人にお話を伺った。

― 美しい景観とは

—いまの京都には、古都のイメージがつけられて、景観デザインもそのイメージを目指しているのかわかりませんが、統一感のある街並みをつくろうという流れがある気がしています。

 

井上—私、大学の3年生のときに地中海沿岸をまわったんですよ。そのとき、特にフィレンツェは衝撃で、700年間使い続けている市役所があって、まち全体が博物館のようになっていました。それで日本へ、京大へ帰ってくるじゃないですか。近代建築の保存運動なんかをやっている人に対して、京都の近代建築の一つや二つ保存して何の意味があるんだと思ってしまいました。一つひとつはそう大した建築でもないわけじゃないですか。あれは、連なって街並みをなしているところに意味がある、と私は考えます。近代建築の保存運動は、いまは知りませんが、私の学生の頃はほぼ連戦連敗でした。オーナーや企業に、維持し続けてくれという要望書を出しても、大概ははねつけられるわけですよ。はねつけられて、敗北を余儀なくされた近代建築の研究者たちが、あかんかったなあというふうに肩を寄せ合いながら残念会をしている姿を見ると、そこそこ楽しそうなんです。彼らはひょっとしたら、敗北がもたらす惨めな連帯感をエンジョイするのが趣味になっているんじゃないかなと思いました。京都で保存して何の意味があるんだという問題に本気で向き合おうとしている人はいなかったと思います。

 現在の景観条例に関していうと、確かに、いまどんどん建ちだしているホテルもだいたいグレー系統で色を整えて、高さもややおとなしめにしてはいますよね。ゆくゆくはあれで街並みができると考えているのかなとは思います。でもそうは、たぶんならないね。少なくとも、フィレンツェやシエナのような街には、ぜったいなりませんよ。

 

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関西学院大学のキャンパス

 京都とは離れるけど、美しい街並みの一つだと思うものに、関西学院大学のキャンパスがあります。建物はみんなウィリアム=メレル=ヴォーリズの設計です。それ自体は大したことないんです。別に私はヴォーリズという人、そんなに腕の立つ建築家だとは思っていないです。でも、キャンパスに同じデザイナーのほぼ同じ時期の建物が並んでいる様子は、日本の他の大学にない美しさがあるんですよ。あれは残す値打ちがあるなと思います。神戸女学院なんかもそうです。同志社も良かったけど、若干崩れだしているかな。でも京大に比べたら遥かに整っていますよ。京大はどうしてああなってしまったんだろうね。 

 神戸女学院ですが、経営状態はあまり思わしくないんだそうです。そこで、あるシンクタンクに経営改善のアイデアを求めたんですよ。そのシンクタンクは、並んでいるあの既存の校舎を全部潰して超高層に建て替えろというんです。これには減価償却の問題が関わっています。税務署の判断で建物の値打ちは最大30年、ものによっては40年間くらいまで認めてくれるんだけど、そこまで来ると値打ちがなくなるんです。財産ではなくなるんですよ。鉄筋コンクリートでもたぶん50年くらいじゃないかな。これが減価償却です。つまり、何年か経ったら物件は事実上ゴミになるんですよ。少なくとも、経済に生きる人はゴミと判断するんです。私は神戸女学院の整ったキャンパスの景観を美しいと思うけれども、減価償却計算に立脚するエコノミストにしたら、ただのゴミ屋敷です。だから維持費だけかかる資産価値のない物件は撤去して、超高層ビルにしたほうがいいというのは理にかなっているんです。現代日本社会はそういう社会なんです。これは逆説的なんだけど、社会自体が建築の文化的な価値をほとんど評価しないおかげで、建て替えのチャンスに恵まれるんです。そのせいもあって、日本の建築家にはけっこう仕事があるんですよ。

― 観光と街並み

—ひとくちに京都といってもいろいろな場所があるはずなのに、現在の景観条例では、どの地域にもほぼ一律して規制が定められています。これには観光客のような外部から来る人が、京都に対して古都のイメージを漠然と持っているのと何か関連がある気がします。

 

井上—そうですね。必ずしも、住んでいる人の暮らしがそのまま建物の外に現れているわけではなく、観光上の思惑でつくられようとしているんじゃないか、という指摘ですね。私としては、観光上の思惑でつくられている部分はあっても、フィレンツェやベネチアなどに比べれば、そんなものは取るに足らないという反論をしたいような気がします。まちによってそれぞれ地域から醸し出される気配があって、これを具体化したいというような、そんなきめ細かな建築政策を京都市が持っているわけではありません。持ちようがないです。本気でそんな対応を確認申請の窓口がし始めたら、それはそれで大変ですよ。これは仏光寺では成り立つけれども、松原では困る、とかいうような。それはすばらしいキメの細かさだと私も思いますけど、現実的には無理だと思います。

 

—そういった景観政策によって、京大周辺独特のタテカンの景観もなくなってしまいました。

 

井上—タテカンに関していうと、僕はあまり京大生に同情的ではないんです。昔は良かったという話になりますが、1970年代の立て看板は美しかったんです。各セクトにはそれぞれのデザインがあって、ゲバ文字のレタリングが輝いていたんですね。定規で線なんか引かずに職人芸で書いていくんですよ。いま、あの職人芸を伝承する組織はもう京大の中にはないと思います。いまは大勢の人に告知をするときにパソコンが使える時代です。電脳媒体で人の勧誘導員ができるにもかかわらず、あえて立て看板で訴えたいというのなら、それなりの美術心を見せてほしいと思うわけですよ。あんな下手くそな字なら、わざわざ立て看板にしなくていいだろうと思います。

 どうしても出したいならキャンパスの中に限定しろ、という京都市に対しても違和感を抱きます。違和感があるのは、別に京都市自体があの立て看板で壊されてしまうような美しい街並みを持っていないんじゃないかということです。あのタテカンがあっても、そんなに街並みが壊れるわけじゃないと思います。百万遍や東一条あたりの景観は、そんなにデリケートじゃないですよ。京都を案内する英語のガイドブックには、街並み自体は大したことないアジアの普通のまちだと書いてあると聞きます。だからたぶん京都に行く人も、いわゆる街並みを求めているということはないと思います。

― 観光地としての京都

—それにもかかわらず、京都がいま、ヴェネチアなどと同じように観光で盛り上がり、ここまでもてはやされているのは、メディアのイメージ戦略のせいなのでしょうか。それがオーバーツーリズムの問題を引き起こしている部分もあると思います。

 

井上—もともと観光都市の側面はあったんだけど、20世紀の前半くらいまでは、京都へ来る人の多くは仕事のためだったと思います。京都もある程度、産業都市だったんです。特に呉服が多かったんじゃないかな。染め、織り、塗りとかいうような、いまから見れば手工業だけれども、そういう産業がきわだつ都市だったと思います。だから来る人もおじさんが多かったんです。僕の実感でいうと、様子が変わってきたのは1970年代です。僕が住んでいたのは嵯峨なんだけど、目に見えて観光の若い女の人、ひとり旅の女の人が増えたんですよ。そのころ、京都をうたった流行歌がけっこうあったんです。失恋をした女の人が癒しを求めて京都へ来て嵐山で夕日を見るとか、しょうもない歌が多かったんだけどね。実際に社会の趨勢を反映していて、少なくとも嵯峨では女の人が目に見えて増えましたね。

 あとは、1970年に大阪万国博覧会があって、6500万人を会場に動員したんです。半年で6500万人だから一ヶ月で1000万人、一日で33万人。甲子園球場は一日4万人です。この時期、当時の国鉄は本当に喜んでいました。新幹線は常に満員でした。ところが万国博覧会が終わると、新幹線の乗降客は一気に減るんですよ。このときに国鉄が打ち出したのが、ディスカバージャパンキャンペーンで、日本を見つめ直そうとかあおりたてて、万博の穴埋めをしようとしたんです。その最大のヒット商品が京都駅だったんですよ。あの万国博覧会がなかったらそれほど劇的に変わらなかったと思うけれども。

 それ以前の手工業がらみのおじさんたちは、室町通の呉服問屋と取引の話が終わると、晩は祇園に行ったり上七軒に行ったり、ひょっとしたら島原に行ったり、要するに夜はエッチな遊びを求めていたんです。お伊勢参りというのが伝統的にあります。本当に伊勢信仰があって行った人もいたと思うけど、実際には伊勢神宮のすぐそばにある古市の遊郭回りをしていたんじゃないかな。

 京都観光はおじさん用に組み立てられてたんですよ。だけどそれ以降、ひとり旅の女の人を受け入れる施設がどんどん整っていきました。京都観光のおじさんくさいところは、みるみるデオドラント化されていったと思います。『an・an』という女性雑誌が、70年代は頻繁に京都特集を組んでいました。『an・an』を持ちながら、京都観光をするお姉さんがけっこういたんです。いまもそれが結局、国際化して続いているんじゃないかな。

あとがき

 絶えず変化を続け何かが抜け落ちていく都市の中で、何が真に遺されるべきなのだろうか、という問題意識からこのインタビューは始まった。京都は歴史的な都市とされながら、その実古くからの街並みが遺っている場所は少ない。中心部では中高層のビルが数多く建てられ、日本の他の都市とそう違わない景観が広がる。また観光客の急増による変化も激しく、京都市内の宿泊者数は2000年の942万人から2017年には1557万人まで増加している3)。至る所でホテルが建設され都市景観も大きく変化してきた。しかし交通渋滞やゴミ問題など「オーバーツーリズム」の問題があらわれると、ホテルの誘致に積極的だった京都市も「市民の安心安全と地域文化の継承を重要視しない宿泊施設の参入をお断りしたい」と宣言する4)に至っている。

 そもそも京都の都市景観はどのようにつくられてきたのだろうか。井上氏へのインタビューでは、イタリアなどヨーロッパの人々と日本の人々の、都市や建築文化に対する意識の違いが論じられた。日本における統一的な街並みは権力者による統制の結果であるために、その街並みを盲目的に遺そうとする意識は人々にはなく、あくまで経済性を優先する。そんな日本においてヨーロッパの都市のように都市景観をコントロールすることは不可能に近い。現在、高さや色などについて景観条例である程度の規制を敷いてはいるが、それでも都市景観は雑多なものへと発散する方向に向かう。では、こうした状況の中で建築や都市はどうあるべきか。両氏へのインタビューを通して浮かび上がってきたのは、人々に共有された生活の型=「モデル」というキーワードである。

 ここでいう「モデル」とは、従来の都市開発において画一的に用いられてきたモデルではない。経済原理に基づくこのモデルは場所を問わずきわめて普遍的に適用され、「もの」としての建築や都市の形を定義してきたが、そこに景観条例で庇や格子といったパーツ単体を取って付けても何の意味も持たなければ、高さや色を規制することがまちのアイデンティティを決めるはずもない。我々が提示すべき「モデル」とは、都市において共有され得る生活の型であり、それとともにあらわれる建築や都市の形である。かつて京都には町家とその周囲のコミュニティによって形成されていた生活の型があった。例えば町家の開口部は、格子などを用いて採光を必要十分に取り入れ、見る/見られるの関係を高度に作り出す。これは密集都市において、難解なコミュニケーションを必要とする生活文化と合わせて形成された生活の形といえるだろう。

 ではなぜ「モデル」が必要なのか。それは現在の京都を強く支配しているのが「イメージ」だからである。観光向けにつくられた「イメージ」を各人が都合よく解釈して、建物に限らずあらゆるものに当てはめてきた。その原因の一つは、京都の文化が時代ごと、場所ごとに複雑に根づいたものであり、それを保てといわれても、正しく解釈し具現化することが非常に難しいからだろう。ヨーロッパでは建築物に「変更を加えない」ことで都市固有のモデルを守ってきたが、京都ではむしろ都市で営まれる文化を遺していく戦略として「モデル」を提示する必要があるのだ。

 「モデル」を提示している例として、建仁寺塔頭両足院が実践している、ホテルや茶室を現代的に活用するプロジェクトがまさにそうである。伊藤副住職は京都で遺されるべき生活の型を、「丁寧さ」や「縦軸と横軸」といったキーワードを用いて述べている。彼は「京都」という都市の文化と歴史を身をもって理解し、その変化を許容しながらどのように現在に応用するかを、ハード/ソフトの両面で我々に見せてくれる。

 どれだけ時代が過ぎ去っていこうとも、その都度応用しうる揺るぎない文化と歴史があるはずだ。何が遺されるべきか、これは生活と「もの」をめぐる思想である。我々に求められているのは、失われつつある京都の生活を型として遺し、それが触発されるような建築を考えていくことではないだろうか。

1)秦恒平,伊藤東慎,監修 井上靖,塚本善隆 (1976)『古寺巡礼 京都 建仁寺』淡交社 より引用

2)監修 白幡洋三郎 (2008)『京都市今昔写真集』樹林舎 より引用(写真提供:南聿子氏)

3) 『京都観光総合調査 平成29年(2017年)』 https://www.city.kyoto.lg.jp/sankan/cmsfiles/contents/0000240/240130/kyosa29saishu.pdf

4) 産経WEST (2019.11.20)『京都市、宿泊施設の新規参入「お断り宣言」 急増で誘致方針転換』 https://www.sankei.com/west/news/191120/wst1911200034-n1.html    

『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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2020.11 | 
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インタビュー:
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