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【エッセイ】 布野 修司

 ある都市の肖像 — スラバヤの起源

​ Shark and Crockodile

― 誕生日1293.05.31

 スラバヤ市は,1293年を創立年とし,しかも月日を特定して,5月31日をスラバヤ誕生の日とする。1293年はマジャパヒト王国建国の年であり,その日は,初代国王クルタラージャサ・ジャヤワルダナKertarajasa Jayawardhanaとなるラデン・ウィジャヤがクビライの派遣したモンゴル軍をスラバヤで撃退した日という9)

 クビライ Khubilai(Kublai)が,シンガサリ王国を武力制圧するために遠征軍を送ったのは1292〜93年のことである。クビライは,1280年以降,シンガサリ王国に対して元の宗主権の承認と元朝への来貢を求める使者を度々送る。その執拗な要求をクルタナガラ王(1254〜92)は悉く拒絶し,1289年の使者,孟琪Men Shi(Meng-qi)に対しては,盗賊扱いし,顔面に焼印(入墨)して耳を削いで送り返したという。これに激怒したクビライは,ジャワ侵攻を決断,軍船を派遣するのである。2万〜3万人の兵が集められ,1,000隻の船団が泉州を出発してジャワに向かったのは1292年12月である。指揮を執ったのは,モンゴル人のシービShi-bi, ウイグル人のイケ・メセIke Mese,中国人の高興Gaoxingである。どのような船団であったか『元史』は伝えないが,川を遡る小舟を建造させたとしているから,現地の地勢を十二分に把握し,周到な戦術を立てた上での編成であったと思われる。

 シンガサリ王国は,ムラユ王国(1183〜1347)を破り(1290年),当時のジャワ海域で最強国家となる。しかし,1275年頃からのスマトラ遠征で手薄となった首都の防護の隙をついて,クディリ(カディリ)のジャヤカトワンが叛乱を起こす。ジャヤカトワンは,マドゥラ島スメナップを拠点にしていたアルヤ・ウィララジャの援助を求め,シンガサリの首都クタラジャ (トゥマペル,マラン近郊)を南北から挟み打ちする作戦をとるが,この時,北の防御に派遣されたのがクルタナガラ王の娘婿ラデン・ウィジャヤである。ラデン・ウィジャヤは北からの攻撃を食い止めたが,南からのカディリ軍によって王都は攻略され,クルタナガラ王は殺されてしまう。ラデン・ウィジャヤは,マドゥラ島に逃れ,アルヤ・ウィララジャの監視下に置かれることになったが,マジャパヒトと呼ぶことになる村に居留することを許される。モンゴル軍を迎え撃ったのは,マジャパヒトの地に逃れてきていたラデン・ウィジャヤである。 

9)スラバヤ市が条例(Mo.02−DPRD-Kep-75)で5月31日を誕生の記念日とするのであるが、史実として確認されているわけではない。Slamet Muljana(1976)“A Story of Majapahit”、Slamet Muljana(1979)“Negarakertagama dan Tafsir Sejarahnya”は、モンゴル軍が撃退されたのは、1293年4月24日だとしている。そして、マジャパヒト王国の設立が宣言されるのは1293年11月とされる。

 『元史』の記述は少ないが,泉州の港を出航したモンゴル軍は,大越,チャンパの沿岸を航行して,タイ湾奥のパタヤのコーランKo-lan (Billiton)に寄港している。同じ頃(1290〜1292年),マルコ・ポーロ(1254〜1324)が泉州を発って帰国の途につき,チャンパ,そしてスマトラの北部に寄ってインド洋を迂回し,ホルムズへ向かっている。ジャワには寄港していないが,「甚だ裕福な島であり,胡椒,ナツメグ,ジャコウ,ガンショウ,バンウコン,クベバ,クローブなど,世界中の香料がここで生産され,極めて多くの船舶と商人がこの島を目指し,大量の商品を仕入れて巨利を得ている」といった伝聞を『東方見聞録』(『百万の書イル・ミリオーネ (Il Milione)』あるいは世界の記述 (Devisement du monde)』)に記している(図⑥)。

図⑥マルコポーロの行程.jpg
図⑥ マルコポーロの行程

 台風に襲われ,チャンパのウィジャヤ王国に入港を拒否されるなど苦難の行程であったとされる。服従するマレーやスマトラの小国にはダルガチdarughachis(統治官)を残しながら,スラバヤ西方100kmに位置するトゥバンTuban沖に到達する。シービはクビライ軍を分け,一隊をトゥバンから陸路を南下させ,一隊はジャンガラの港からカリ・マスを小舟で遡行させた。両隊はパチュカンで合流,マジャパヒト(滿者伯夷)に到達する(図⑦)。

 ラデン・ウィジャヤは,大元ウルスへの朝貢を約すことでモンゴル軍と同盟協定を結び(1293年3月15日),クディリのジャヤカトゥワン軍を制圧,降伏させる。ウィジャヤは戦勝祝いと朝貢の準備としてマジャパヒトへ帰還,一転,モンゴル軍を急襲,敗走させる。スラバヤからモンゴルを撃退したのが,5月31日という。これがスラバヤの誕生日とされるのである。モンゴル軍は,モンスーンの風向きのために,慌てて帰国することになる。多くのモンゴル兵が取り残され,3,000の精鋭を失ったとされる。

 鮫と鰐の戦いという伝承は,このモンゴル軍との戦いを暗示しているのである。

図⑦a img224.jpg
図⑦b img220.jpg
図⑦ モンゴル軍のジャワ襲撃 1292-93
『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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