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【エッセイ】 布野 修司

 ある都市の肖像 — スラバヤの起源

​ Shark and Crockodile

― ダイヤモンド岬

 スラバヤの名が初めてジャワの史料に現れるのは,マジャパヒト王国の宮廷詩人ラワイ・プラパンチャRawai Prapańcaが1365年に書いたとされるジャワの年代記『ナーガラクルターガマNāgara-Kertāgama』5)である。ただ,スラバヤの名は,4章「1359年の王室の発展」の17-4に一箇所出てくるだけである。「・・・ris jangala lot sabhā nrpati ris surabhaya manulus mare buwun(王がジャンガラにいる時は,スラバヤにある王子の宮殿を毎回訪れ,途中でブワンに立ち寄った)」。

 ジャンガラは,ブランタス川下流域からジャワの東南部の地域であり,カフリパンKahuripanを都とするカフリバン王国(1019〜1045)を前身とするジャンガル王国(1045〜1136)が支配した地域である。井戸を意味するブウンBuwunがどこかは不明であるが,マジャパヒト王国のスラバヤには,王子の離宮が置かれていたことがわかる。

 スラバヤの起源が,マジャパヒト王国の1359年以前に遡ることはわかるが,さらにその存在が確認されるのが,現在のスラバヤ市の南に接するシドアルジョ県のクリアン (クラゲン)で発見された1037年のカラマギアン碑文である。その碑文には,ウジュン・ガルーUjung Galuh(Hujung Galuh)という名が記され,ブランタス川の河口,現在のスラバヤのカリ・マス河口部に比定されるのである。古ジャワ語で,「ダイヤモンド(宝石)岬」という意味である。

 カフリパン王国そしてジャンガラ王国の時代,スラバヤはウジュン・ガルーと呼ばれた港市であった。ウジュンは,スラウェシのウジュン・パンダンのように,端部,岬といった一般名詞であるが,現在のスラバヤのカリ・マス河口部にもウジュンという地名が残されている。1982年に最初に調査して以来,毎回訪れるカンポン(カンポン・ウジュン)である。

 ジャンガラ王国の歴史については,ジャワのヒンドゥー王国の歴史を遡る必要がある。ボロブドゥールやロロ・ジョングランを建設した中部ジャワのマタラム(・ヒンドゥー)王国は, 929年に即位した第13代シンドク MPu Sindok 王(在位929〜948)の時に東部ジャワに遷都する。シンドク王は,ジョンバン周辺のブランタス川河畔のワトゥガルーWatugaluhを都(ムダン(メダン))とし,国名をメダンに変え,王朝を開いた。この王朝はクディリ王朝と呼ばれるが、やがてシンガサリ、マジャパヒトへ拠点を移していくことになる(図④)。

図④ 東ジャワのヒンドゥー王都

5)ナーガラクルターガマとは「聖なる教えの国」という意味である。『ナーガラクルターガマ』がチャクラヌガラの王宮から言語学者,J.ブランデスBrandesによって発見されたのは1894年11月18日のことである。このロンタル椰子の葉に書かれた作品については,T.G.ピジョーの『14世紀のジャワ』5巻(Ⅰ.ジャワ語テキスト,Ⅱ.英訳・註,Ⅲ.翻訳,Ⅳ.注釈・要約,Ⅴ.用語集・索引)(Pigeaud, Theodore G.(1960))によって知ることができる。その後,1979年にバリで,H.I.R.ヒンツラーHinzlerとJ.ショテルマンSchotermannによって異本が発見され,『デーシャワルナナDeśśawarnana』(Robson S.(1995), Desawarnana (Nagarakrtagama) by Mpu Prapanca, translated by Stuart Robson,KITLV Press Leiden)として公刊された。「デーシャワルナナ」とは「地方の描写」という意味であり,もともと『ナーガラクルターガマ』も本文に明記されている名前は『デーシャワルナナ』である。『デーシャワルナナ』は,シンガサリ王国の創建者ラージャサ王の誕生に始まり,1343年のバリ遠征で終わる。ジャワの歴史については,もうひとつ,17世紀初頭に古ジャワ語でかかれた作者不詳の王の事績を編年体で記した年代記『パララトンPararaton(諸王の富)』(Brandes J.L.A.(1920), “Pararaton(Ken Arok)”, Martinus Nijhoff, The Hague)が知られる。で,ラージャサRajasa王の誕生に始まり,クルタブミKertabhumi 王の1486年の記事で終わる。ジャワの歴史については,その他,近世ジャワ語で書かれたジャワの年代記『ババド・タナ・ジャウィBabad Tanah Jawi(ジャワ国縁起)』,『スラト・カンダSelat Kanda』がある。その他,Kidung Panji Wijayakrama, Kidung Rangga Lawaなどの中世ジャワ語の詩篇,そして多くの碑文が編年のために利用される。Stametmuljana(1975)が史資料を列挙している。

 シンドク王後70年近く刻文の発布がなく不明な点が少なくないが,その後王位はバリ生まれのアイルランガ(Airlanga=水を飛び越えるの意)(991〜1049)の時代となる。アイルランガは,王位につくと,各地に軍事行動を展開,ブランタス流域を中心に,都をカフリパンに置いて,北はトゥバン,南はインド洋岸,東はパスルアン,西はマディウンにおよぶ領域を支配し,東ジャワの再統一を果たした(1037年)。そして,バリそして東ジャワから中部ジャワにかけて一大王国を築くことになる。スラバヤ,トゥバンといったジャワ北岸の港市が発展するのはアイルランガ王の時代である。そして,後継者問題に悩んだアイルランガが2人の息子に領土を二分して与え、クディリ王国はジャンガラ王国とパンジャルPanjal王国に2分されるのである(図⑤)。

 12世紀に入って,ジャンガラ王国は,クディリ王国に併合されるが,中国史書にはそれ以後にもジャンガラの名が見られる。南宋の泉州市舶司,趙汝适Zhao Ruquaが書いた地誌『諸蕃誌』Zhu fan zhi(1225年頃)には戎牙路(姜加拉jiang jia la))とあり, 元の航海家,汪大渊(1311〜1350)の『島夷志略』(1339年頃)には重迦庵Jung-ya-anがスラバヤとされる。鄭和の南海遠征(1405〜33)に参加した馬歓(1380〜1460)が書いた『瀛涯勝覧(えいがいしょうらん)』6)には,蘇魯馬益(あるいは蘇兒把牙)7)と記される。

 碑文は,アイルランガ王がブランタス川の氾濫を防ぐための大堰建設を讃えるものであったが,ウジュン・ガルーが既に海外交易のための重要な港となっていたことがわかる。アイルランガ王が海外交易に大きな関心をもっていたことは,この碑文以前に発布したチャネ刻文(1021年)などに外国人の名を列挙していることで窺え,ウジュン・ガルーにはジャワ島以外からの商人が居留していたのである。ウジュン・ガルーの他には,スラバヤの北西のトゥバンに港市が存在したことが後の刻文で知られる8)

 アイルランガ王の時代すなわち11世紀前半にはスラバヤは港市形成の歩みを開始していた。ジャンガル王国がパンジャル王国に統合されて以降,クディリ(ダハ)を都とするクディリ王国が栄えるが,13世紀に入ると凋落し始め,1222年にケン・アンロックがクディリ王国のクルタジャヤ王を倒して,ラージャサ王朝をたてる。この間の王都はいずれもブランタス川の流域に位置し,スラバヤはその河口に位置する。すなわち,スラバヤは東ジャワ内陸のヒンドゥー王国の外港として発展してきた。

図⑤ クディリ王国とジャンガラ王国

6)鄭和の 前後7回の航海のうち,馬歓が参加したのは第4,6,7次の3回であったが,その主要部分は第4次航海(1413年冬〜1415年7月)の報告と考えられる。占城(チャンパ)から天方(メッカ)に至る20か国の風俗,物産,制度,住民などを詳しく紹介している。いくつかの系統の版本があるが,馮承釣(ふうしょうちょう)校注の『瀛涯勝覧校注』(1955・中華書局)に定評がある([寺田隆信]『小川博訳注『馬歓・瀛涯勝覧』(1969・吉川弘文館)』)

 

7)爪哇國:瓜哇國者,古名闍婆國也。其國有四處,皆無城郭。其他國船來,先至一處名杜板。次至一處名新村,又至一處名蘇魯馬益。再至一處名滿者伯夷,國王居之。其王之所居以磚為牆,高三丈餘,週圍約有二百餘步。其內設重門甚整潔,房屋如樓起造,高每三四丈,卽布以板,鋪細藤簟,或花草席,人於其上盤膝而坐。屋上月硬木板為瓦,破縫而蓋。國人住屋以茅草蓋之。家家俱以磚砌土庫,高三四尺,藏貯家私什物,居止坐臥於其上。・・・・於杜板投東行半日許,至新村,番名曰革兒昔。原係沙灘之地,蓋因中國之人來此剏居,遂名新村,至今村主廣東人也。約有千餘家,各處番人多到此處買賣。其金子諸般寶石一應番貨多有賣者,民甚殷富。自新村投南船行二十餘里,到蘇魯馬益,番名蘇兒把牙。其港口流出淡水,自此大船難進,用小船行二十餘里始至其地。亦有村主,掌管番人千餘家,其間亦有中國人。其港口有一洲,林木森茂,有長尾猢猻萬数,聚於上。有一黑色老雄獮猴為主,卻有一老番婦隨伴在側。其國中婦人無子嗣者,備酒飯果餅之類,往禱于老獼猴,其老猴喜,則先食其物,餘令衆猴爭食,食盡,隨有二猴來前交感為驗。此婦回家,卽便有孕,否則無子也,甚為可怪。

 

8)青山亨(2001a)「東アジア統一王権—アイルランガ王権からクディリ王国へ」(岩波講座『東南アジア史』2「東南アジア古代国家の成立と展開(10−15世紀)」,岩波書店。

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『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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