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【エッセイ】 山岸 常人

 オーバーアマガウの受難劇 

 

 結論的にいえば、オーバーアマガウ受難劇は極めて近代的なものであり、そこから中世的な様相を読みとるのは、少なくとも表面的には極めて困難である。そのことは劇の台本や舞台構成を分析した先学の論考でも指摘されているところである。しかし日本の民俗芸能と対比してみるならば、民俗芸能も古風な要素を内包する反面、近代的な変容を受けていないものはない。とすればオーバーアマガウの現状から中世の残滓を捉えながら、日欧対比を行うことは、建築史や宗教史研究に示唆を与える点は少なくないはずである。

図4 エッタール修道院

 

 まず、オーバーアマガウ受難劇は最初、教会の墓地に舞台を組んで演じられたが、1815 年に村の北はずれに劇場が建てられ、以来そこで演じ続けられてきた。1930 年に建て直されたものが現在の劇場である(図3)。単純な近代化に見えるが、中世のフランクフルト受難劇の例では、担い手が聖堂参事会から市参事会に変化することにより上演場所が聖堂の傍らから市庁舎前へと移動した註2。ヨーク聖史劇のように、都市内を舞台を巡行させる行列劇と称される形態もあり、オーバーアマガウも中世以来の変遷の一形態とも見なせる。日本に引き付ければ、神輿の巡行や曳山祭、能舞台や芝居小屋の形成過程が対比的に考えられる。滋賀県湖北の「おこない」(年頭の予祝行事)の「道行き」なども、宗教施設以外の村の中での芸能のあり方として比較が可能かもしれない。

 

 オーバーアマガウ受難劇の台本は、前述のようにアウグスブルグやエッタールの修道院が作成に関わった。つまり近隣の宗教的拠点がこの小さな村の宗教行事を支えていた。特にエッタール修道院(図4)は、オーバーアマガウから約四キロメートル南の山中にあり、十四世紀に神聖ローマ皇帝が設立した由緒をもつ。エッタールはオーバーアマガウの教区の管轄権や司法権を持っていた。日本では近世に至るまで、権門寺院の僧侶が周辺の村落の宗教活動を担い、村落の宗教行事だけでなく、知的活動にも関与した。近隣の権門寺院が村落の小寺院や堂と、法脈や土地支配も含めた本末関係で結ばれていたのと全く相似的な関係である。

 オーバーアマガウ受難劇は村人によってすべてが担われているが、これもまた滋賀県湖北の「おこない」などと対比できる。「おこない」は、寺院の修正会・修二会が村人の運営する民俗行事となったものと考えられる。堂の荘厳が準備され、堂内で本尊への祈願が行われる。その準備も祈願もすべて村人の手で行われる例もあれば、仏教的儀式部分だけは僧侶が関わる例もある。今は開演前に祈るだけというオーバーアマガウ受難劇も、教区教会とは無縁であったわけではない。とすれば教会内での典礼や聖史劇、教会内部に作られる聖書の各場面の彫刻なども含めて、その担い手と受容者の関係を考える手掛りがあるように思う。

 中世の聖堂には、内陣と身廊を仕切る障壁(ドイツ語でLettner、フランス語ではjubé、英語ではscreen)があった。聖史劇の場面を教会内で演じる際、外陣(身廊)に舞台装置を設けて聖職者がそこで演じた場合、内陣にいる聖職者にはそれを見る事ができなかったはずだという指摘がある註3。一方イタリアでは障壁を利用して聖史劇の舞台装置が設けられたという註4。中世の教会建築に障壁が残る例は多くないが、例えばカンタベリー大聖堂には分厚い障壁が現存する。障壁はなぜ設けられたのか。この問題は中世仏堂の内外陣境の格子戸と並行関係にある。中世仏堂での修正会の際に現れて予祝を行う鬼は、内陣で所作をすることは多くない。空間の区分とそこで演じられる芸能は、どのような相関関係を持つのか。

 

 思いつくままにオーバーアマガウ受難劇やそれに先行する宗教劇の断片的知識から、日本の中世宗教文化との対比を試みた。所詮他人の空似を並べたに過ぎないようでもあるが、もう少し本質的な関係があるかもしれない。無関係だとしてもその対比から宗教文化の特質を解き明かしてゆく事はできないものか。その思いから専門外の日本中世史研究者が受難劇を鑑賞したのであり、その後も細々とヨーロッパ教会の宗教劇の情報を探っているところである。 なお、本稿で述べた受難劇の沿革や歴史的意義については下記参考文献に依った。それらには重複する内容も多く、煩雑となるので、特に個別に典拠を示す必要がある部分以外は註記を割愛した。

2)参考文献4
3)参考文献1
4)参考文献5
<参考文献>
1、尾崎賢治「中世ドイツ宗教劇の演出形態―古フランクフルト受難劇を中心として―」
(『上智大学ドイツ文学論集』11 昭和四十九年)
2、南道子「オーバーアマガウ受難劇考察」(『研究紀要』第十五集 東京音楽大学 平成三年)
3、西村雅樹「オーバーアマガウ受難劇―世紀末ウィーンならびにユダヤ人問題との関連で―」
(同『世紀末ウィーン文化探究―「異」への関わり―』 晃洋書房 平成十一年)
4、土肥由実「受難劇 vs. 聖史劇―「イエス・キリストの受難」を巡る表現と受容に関する一考察―」
(『西洋中世研究』第2 号 西洋中世学会 平成二十二年)
5、杉山博昭『ルネサンスの聖史劇』(中央公論新社 平成二十五年)

図2~4は筆者による撮影。
『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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