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【エッセイ】 布野 修司

 大興城( 隋唐長安) の設計図-中国都城モデルA 

 Plan of Chang'an - A Model of Chinese Capital

― 隋唐長安都城モデル

 隋唐長安の設計図、その寸法関係は、以上のように明らかにできた。残された問題は『周礼』「考工記」匠人営国条との関係である。『周礼』「考工記」匠人営国条考については、traverse14 号(2013)で独自のモデル図を示した。


『周礼』「考工記」匠人営国条の都城モデルと比較すると以下のようである。
①「方九里」については、「方」(正方形)ではなく、東西が長く、規模もほぼ倍(東西18.3 里、南北15.5 里)である。
②「傍三門」については、ほぼ従っていると見ることができる。が、北辺の門は七門ある。そして、東西南辺の門の配置は等間隔ではない。
③「国中九経九緯」については、徐松『唐両京城坊攻』の記述に従えば、10 × 13 グリッドからなるから、環塗を含めなければ、9 経× 12 緯、含めれば、10 経× 14 緯となるから、従っているとは言えない。
④「経塗九軌」については、上の検討に基づく南北街路(小街)幅50 歩、東西街路(小街)幅25 歩(15 歩、35 歩、50 歩)に合っているわけではない。
⑤「左祖右社」については、従っていると言っていい。
⑥「面朝後(后)市」については、宮城の後方(北)と解釈すれば、「後市」となっていない。
⑦「市朝一夫」には従っている。

 総じて、『周礼』「考工記」モデルと関係なさそうに思われる。だからと言って、既に確認したように、全体を108 坊に区画したのは、中国全土を意味する9 州と1 年12 月、9 × 12から得られる数であるとか、南北13 坊が配されるのは、1 年12 月と閏月を加えた13 であるといった説には説得力はない。
 最大の問題は、「北闕」型であることである。既に北魏平城、あるいは曹魏鄴で「北闕」型の形式が見られるが、隋唐長安ほど形式的に整然とした例はない。応地利明(2011)の隋唐長安の形態解釈において最も興味深いのは、「北闕」型の空間構成についての指摘である。すなわち、北闕左右の構成は、鮮卑軍団の軍営組織に由来するという。依拠するのは、テュルク系遊牧集団に共通する「オグス・カガンの軍団編成」である(杉山正明(2008))。
 中国都城の理念というけれど、北魏平城以降、「北闕」型都城を造営してきたのは遊牧民族である鮮卑拓跋部である。まず、遊牧民の集団編成の原理と都城の空間構成を関係付けるのは極めて自然である。「北闕」型が本来の中国都城であるという村田治郎の主張は否定される。杉山正明のいう「オグス・カガンの軍事集団」は、ユーラシアにおけるスキタイ・匈奴に始まる遊牧国家の歴史的展開の基礎に関わる重要な空間編成原理である。その基本モデルは、ラシードゥッディーンの『集史』(1310 ~ 11)第1 部第1 章「テュルク・モンゴル諸部族志」の始祖説話(オグズ・カガン伝説)に示される。オグスには、右翼に「日」(キュン)「月」(アイ)「星」(ユルドゥズ)、左翼に「天」(キョク、蒼天)「山」(タク)「湖」(デンギズ)という6 人の子がいて、6 人には、さらに4 人ずつの息子がいる。左右にそれぞれ3 × 4 = 12、計24 の集団を配するのである。

 モンゴル帝国においてもこの左右両翼24 軍の体制がとられる。チンギス・カーンを中央に、右翼の3 人の息子ジョチ、オゴデイ、チャガタイにはそれぞれ4 つの千人隊、左翼の3 人の弟カサル、オッチギン、カチウンには、順に1,8,3 の千人隊が割り当てられた。左翼の配分は均等ではないが、左右両翼はそれぞれ12 の千人隊からなる。そして、女真族が建てた後金、そして大清国の都盛京が実に興味深い。ヌルハチが建てた宮城は大政殿(八角殿)を北に置いて東西に十王殿が並ぶ。十王殿は八旗と右翼王、左翼王である。これは軍団編成そのものである。ヌルハチが採用した八旗制は清北京の空間構成原理となる。

 このように、南面する中央と左右両翼の三極体制、十・百・千・万の10 進法による軍事・社会組織は、ユーラシア東半に共通の国家システムである。応地利明は、宮城・皇城とその東西の空間構成は、この左右両翼24 軍体制を空間化したものだという指摘は、これまでに全くない新説であるが、上にあげた事例に照らせば極めて説得力がある。上に解析したように、左右は、それぞれ3(東西)× 4(南北)= 12 の坊、合わせて24 坊からなるのである。杉山正明の図について、宮城、皇城、そして、東西の街坊がまず建設されたことを考え合わせると、「宮闕」と左右両翼の街坊を1 つのセットと考えるのは自然である。建設過程が明らかにするように、まず、宮城・皇城と左右両翼部分が設定され、北区域と南区域が分離される。宮城に接して設けられる禁苑を含めて考えると、宮城・皇城は中央に位置するという見方もあるが、「北闕」型、すなわち宮闕区域を北に置くことがまず選び取られている。これは『周礼』都城モデルと決定的に異なる点である。
 しかし、次に「六街」の配置が設定されていることは、『周礼』「考工記」匠人営国条の「傍三門」が意識されていることを示すであろう。そして、金光門と春明門を繋ぐ横大街より南の街区が東西18.3 里、南北9.375 里であること、すなわち「方九里」2 個分であることも、『周礼』と無縁ではないと思われる。南の条坊区域のみについてみれば、環塗を除くと「九経」であり、金光門-春明門の横大街を加えれば「九緯」でもある。
 都城のかたちとコスモロジーとの関係についての議論は残るが、宮城区域の形式(三朝五門制)、南面する中央と左右両翼の三極体制の空間化、体系的な土地班給システムに基づく坊墻制、南北中軸線と左右対称の空間構造の確立など、隋唐長安はいくつかの空間構成のシステムを総合化した都城モデルとなるのである。

『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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