【エッセイ】 竹山聖
形を決定する論理
作品とは何か?可能性が能力となり、無限定なもののみに充ちた空虚な法則であり形式(フォルム)である精神が、現実化された形態(フォルム)の持つ確かさとなり、形態である物体、一個の美しい物体であるあの美しい形態となるような、例外的瞬間である。
ー モーリス・ブランショ ※1
1モーリス・ブランショ『文学空間』粟津則雄・
出口裕弘訳、現代思想社、1962、p.111.
― 形
つまるところ建築の課題はいかに形を決定するかに尽きる。建築は形態ではない、状態を設計する、さらには形を消す、というシュプレヒコールも十分踏まえた上で、あえてこう言い切ってみる。
霧のような、雲のような、静かな雨のような、五月の風のような、木漏れ日のような、透明な空気のような、緑陰のような、手触りのような、忍び寄る影のような、漏れ来る香りのような、・・・建築。そうした建築を語る言葉をわれわれは持っている。しかしそれはメタフォアであって、現実に物体が存在するとき、それは形を持つ。
すべてが建築である、という言い方が成立するにせよ、そして建築とは方法であり思想であり美学であり、つまりはものではない、という本質的な議論に目配りを失せぬ必要はあるにせよ、現実にわれわれを取り巻く建築物は主として人間の身体と行為に応え、これを導く形として現象する。人間の知覚が世界を形として捉えてしまうからである。逆の言い方をするなら、形として捉えられる世界が人間の意識や行動に影響を及ぼすからである。
― 機能
それではいかにして形を決定するのか。それは機能である、とするのが近代建築のテーゼであった。形は機能に従う、というわけである。さて、では機能で形が決まるか、といえばそれはノーであった、というのが近代建築をふりかえれば容易に了解される事実である。
機能は形を導くことはあっても、決定することはない。機能で形がすべて決定されればこれほど楽なことはない。そうでないから、延々と異なる回答が提出され続けるのであって、そこに近代建築の栄光も悲惨もあるのであり、遥かに続く建築の歴史の豊かさも、日々の設計の喜びもある。
― 行為
機能という言葉は、工業製品としての機能、性能という含みと、生活の行為の系という含みを併せ持つ。このうち行為の系に注目してみよう。たとえば、お茶を飲む、本を読む、といった日常の行為から、学ぶ、語る、聞く、歌う、祈る、といった根本的な姿勢や態度を表す行為に至るまで。
本を読む行為は今日にあっては個人的な行為であり、本来は思い思いになされるものであっても、それが集合する場合、ある種の規律の上に成立する。図書館のように。
学ぶという行為も思い思いになされて然るべきものだが、特に教師と生徒という関係を例にとるなら、メタフォアとしてはルイス・カーンが語るように一本の木の下で語る人間とそのまわりに集まりその人間の言葉に耳を傾ける人間たちの空間的な形がイメージされ、牧歌的かつ原初的な初々しさが残るものの、そこに教育のシステムが導入されれば、規律の上に成立する空間形態となる。学校のように。
かくして施設計画という括り方を通して、行為の系をいったん用途として捉え、そこに何らかの建築の形を決定する蓋然的な規則性を見ようとする考え方も生まれた。
歴史的に見ても、行為に社会的なシステムを導入し、これを空間化するのが建築の役割でもあった。建築は基本的に共同体の意志と合意によって築かれるものであったからだ。
ただしこれは社会の形(在りよう)によって変化する行為の系の捉え方であって、かつて宗教施設が学校であり病院であり美術館であり図書館でありコンサートホールであり農場であり工場であった時代もあったのであって、近代国家が国民を統合し規律を与える形(在りよう)をとったから、そして近代国家は基本的に宗教とは一線を画したから、それらは基本的にパブリックな施設によって提供されることとなった。
すなわち、行為がそのまま建築の形を決定するというわけではない。行為の系をある程度の荒いタイプに分類すれば、その方向づけをすることができるにせよ。
― 円形
そうした行為の中には現実の空間形態を表すような言葉を伴うものもある。車座、というのはそもそも車輪をメタフォアとするが、円くなって座り、ある共同の場を形成する人間の行為の在り方を指している。そこでは言葉のうちにすでに形が示唆されている。つまり、円形へ。
もちろんこれは完全な円形である必要はない。車座になって、というのは整列してスタジアムで群舞を行うような幾何学としての完全な円形を意味しない。しないが、「まるくなって座りましょう」と言えば誰しもわかる程度には形についての暗黙の示唆と了解がある。
ではさて仮に車座が予定される空間である場合、空間が円くなければならないかと言えば、これもおのずとそうではないという回答が得られるだろう。円くて悪いわけではないが、四角い空間に円く座ればいいだけである。あくまでもたとえ話で車座という行為を示唆する言葉を出したわけだが、つねに車座のみが期待され、それに限定される空間が要望されるということも、実は考えにくい。建築空間にはおのずとフレキシビリティーが求められもする。空間の効率の問題である。
空間は、わかりやすく言い換えるならこの場合、部屋は、連続して作られることが期待されることが多い。構造的にも機能的にも経済的にも合理的であるからだ。その場合、円形より矩形が選ばれるだろう。矩形は容易に連続し無駄を残さないが、円形を連続させると余りが出るからだ。
アフリカのサバンナに展開する集落の中にはあくまで円形の連続で住居を構成する例があるが、これは世界観や施工方法や空間的ヒエラルキーや順序などによって、原初的な空間構造が保存されているからであり、諸々の機能をもつ空間の複合体として全体を計画される建築物の場合、円形より矩形が選ばれるようになるのは、これは建築の歴史を通覧しても明らかだ。とりわけ組積でなく線材で構造体が構成される建築の場合はなおのこと。
とはいえ、確たる意志や狙いや象徴性やコンテクストの読みから、あえて円形が選ばれることもある。ミシェル・フーコーが論じて空間構造と制度の一致の典型的ダイアグラムとされたベンサムのパノプティコンは、監獄などとの機能的適合のゆえに、ある種の社会の在りようを論ずる有効な形のイメージを与えてくれる。監獄が、病院や学校と近しいシステムを持つことに気づくなら、ここにも機能から形への道筋を見出すことができる。先に触れた施設計画の観点からも、規律を促し監視を徹底する必要のある施設には、このパノプティコン=一望監視空間が望まれる場合もある。これが社会全体のシステムへと敷衍されれば、建築の形がそのまま社会の在りようのメタフォアとなる。
― 幾何学
機能から形が一義的に導き出されない、つまり形が決定できないときに、あるワンクッション、すなわちある仮説というかドグマが必要となる。
そもそも文化的にすでにある種の様式が確立していたり、素材の性質や生産手段が限られていたりする場合には、形の決定は比較的容易である。その様式や生産手段が、ある程度形を決定するガイドラインとなる。
石には石の積み方があり、そこにオーダーを配するということならば、そしてそこに古典主義的なルール、つまりシンメトリーや軸性などが基準としてあるならば、あとは選択と個々のディテールの問題である。
木割が工法の基準としてあり、ほぼプレファブリケートされた部材のアセンブルで建築全体が構成されて、そこに都市的な文脈に応じたヴォキャブラリーが配され、部材の交換のマーケットも成立し、維持管理や修復も行われる京町家のようなシステムが完成されていれば、これもあとは選択とディテールの問題である。
そうした文化の基準や生産手段に応じたシステムの有効性が崩れたとき、それが近代建築成立の事情であったわけだが、形の決定において頼るべきものが失われる。すなわち、石でなく木でなく、鉄とコンクリートであり、手仕事でなく工業生産である、となった場合に。
このとき持ち出されるのが幾何学である。幾何学はつねに様式が崩壊するときに参照されてきた。しかしそれはえてしてある種の理念であって、文字通り本当にプラトン立体そのものがめざされ構築されるのは近代建築の胎動期からである。近代建築がエティエンヌ・ルイ・ブレーやクロード・ニコラ・ルドゥーにまで遡って論じられるのはそのためだ。かれらが純粋幾何学形態を用いて建築を構成しようとしたからである。
もちろん当時、まだ鉄やコンクリートの時代でなく産業革命も黎明期にあった。しかし原理的に形を、そして世界を思考しようとする意志は、ニュートンらの科学革命によって、あるいはロックらの自由思想によって、その種はまかれていた。
「建築は光の下に集められたヴォリュームたちの精妙、精確、壮麗な戯れ」であり、その光の下でくっきり浮かび上がる形こそが「立方体、円錐、球体、円筒形、ピラミッド型」などの初源的な形であって、それは万人に理解される美を持つ、とル・コルビュジエが『建築をめざして』において宣言したとき ※2 、彼は、時代の変化の底に現れる幾何学、という図式を直観的に掴んでいた。
ル・コルビュジエによって宣言されたこのドグマこそが、近代建築の形を決定する導きの糸となったのであり、これはさまざまな形で変奏されつつも、多くの人々の心に、建築の底を流れる美学に触れる何かを感じ取らせる役割を果たし続けてきた。
近代建築批判はその意味性の欠如や歴史的文脈の切断をついてきたものだが、建築が形として現象する限り、本来的にはこの形のドグマをこそつくべきである。
たとえばザハ・ハディドのパートナーであり理論的支柱でもあるパトリック・シューマッハは、その点に十分自覚的な挑戦者である。彼の提唱するパラメトリシズムは、ル・コルビュジエのドグマに対抗する新たなドグマと位置づけられている。プラトン立体の組み合わせ、というリジッドな構成的方法に対して、連続的で流れるようなフォルムのオートポイエーシス(自己生成)的方法を対比させる※ 3 。
これを幾何学批判と受けとめることもできるが、むしろ新たな幾何学の提唱と捉えることもできる。既存のプラトン立体の併置や構成でなく、流れるような自己生成的形態とその分岐、合流、交錯に新たな美と社会システムを見ようとする。ただそれもまた新たな幾何学でもある。すなわち、新たな形への問題提起はつねに、それが具体的な形を問題とする限り、新たな幾何学の提案という構えをとるのである。ただ少なくとも形のドグマには形のドグマをもって対峙しなければならない、という自覚がある。