【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【インタビュー】 THEATRE E9 KYOTO 支配人・蔭山陽太
都市の中の巣
【プロジェクト】小林・落合研究室
地域に根ざす設計技術・地域に根ざす人間居住
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
教授 小林広英
准教授 落合知帆
助教 宮地茉莉
【対談】 竹山聖×小見山陽介
協奏的な教育を追い求めて
聞き手:岩見歩昂、川部佳奈、木下真緒、松岡桜子
2021.8.13 対面とZOOMのハイブリッドにて
——小見山先生は竹山研究室を引き継がれましたね。
竹山——研究室っていうことだと、僕は原研ってやっぱりとっても自由だったと思います。何をやってもよかった。研究室をあげて海外のコンペをやったり、集落調査のために旅に出たりしていたから、原研はいつも全然人がいなくて、空っぽだった。
原先生の事務所もそうだからアトリエファイ(空集合)ってつけたっておっしゃっていました。東大って本当に自由なところだなと思いました。この雰囲気を京大にも持ち込めたらと思って、僕は研究室をずっと運営してきたつもりです。
まあ、もともと僕は、大学で教えるなんて微塵も考えたことはない人間でしたが(笑)。世界を股にかける自由な建築家になるんだと思ってたところに、京大から誘いがかかってて、それも一度は断ったんですけど、迷った結果、来ることにしました。
僕らのずっと上の世代にはプロフェッサーアーキテクトとして、丹下健三とか、あるいは増田友也とか、非常に影響力のある人たちがいました。でも、その後の名だたる建築家たちの多くは大学に行って教え始めて、ただの先生になっちゃった。クリエイティブなものを何も作らなくなってしまった。
槇さんだけは大学に行っても全然洗脳されずにクリエイティブな建築家のままだったけれども、多くのプロフェッサーアーキテクトと自称、あるいは他称もされている人たちは、大学に呼ばれて教え始めた途端に作品がだめになる、そういう印象がありました。
だから、大学で教えるっていう事はあんまりポジティブに捉えられてなかったんですけど、それでも尊敬するプロフェッサーアーキテクトの坂本一成さん、木嶋安史さん、原先生など、周囲が背中を押してくれたので、それじゃあ行ってみようかって思った感じがあります。
小見山——思い返してみると、僕の京大建築との出会いの一つは竹山先生の《TERRAZZA》でした。
父が日本建築家協会に所属していて、委員会のたびに群馬から外苑前の建築家会館まで来ていたので、東京で大学生だった僕はよく父と待ち合わせて食事をしていました。建築家会館の向かいにある《TERRAZZA》の前を通るたびに、これは京都大学で教鞭もとられている建築家の竹山聖さんが設計したもので……と父が話してくれたことを覚えています。
そうした記憶もあって僕は、設計実務に従事するだけでもなく、大学の先生だけに専念するのとも違う、その中間ぐらいでその両方をやれる場所に自分の身を置きたいとずっと思っていました。ですから、いま竹山先生がおっしゃったような大学で教えることに対するややネガティブな考え方は、初めからあまりもっていませんでした。
竹山先生たちの世代がいろいろな迷いもありながら大学に身を置いて活動されてきた結果を見て、僕たちの世代にはその姿が魅力的に映っていたのだと思います。

《TERRAZZA》
竹山——多分ね、僕らの世代では僕が草分けなんですよ。僕が37歳で京大の助教授になったでしょ。その助教授になったってことが、他の大学にも刺激を与えて、團紀彦くんが東工大から呼ばれ、ちょっと世代は上になりますが難波さんは大阪市大から呼ばれ、もう多くの建築家が大学から呼ばれて、それで、渋々なのか喜んでなのか分かんないですけども、教え始めた。
その口火を切ったのが僕だと。川崎清先生も僕が思うに、もし大学っていう足かせがなかったらもっとすごいものを作ってたんじゃないかとも思います。川崎清は僕らが学生の頃、磯崎新とか槇文彦と並び称される、というかむしろそれを凌駕する建築家だったんですから。大学は諸刃の刃だと思うんです。
とはいえ一番の良い点はやっぱり学生たちと語り合あえるということですね。年を取るとテクニックなどは長けてきますし、人脈も豊かになりますけど、切れ味は若い時の方が断然ありますから、若い世代と共にいられるというのは圧倒的によいことです。ただ、大学の組織に足をすくわれるっていうのは気をつけなきゃいけないことだという感じがします。
いざ京大に教える立場として来て思ったのは、僕自身は教育に対して何ら準備ができていない、ということ。
どう教えるかとか、どんな教育の方法があるかって何も分からないわけです。その時に、原先生は旅する研究室って言われて集落調査をやってたな、と思い出して、僕もまずは古代都市調査をやってみることにしました。学生達にも刺激になるようなプロジェクトを学生と一緒に試行錯誤でやって行こうかなと、思って始めたんですね。
そして学生たちと話し合いながら、研究の方向も含めて、様々なことを手探りでやってきました。調査旅行をはじめとして、学生と何か一緒にやろうというようなこと、それから設計演習の改革も、講評会がなければコミュニケーションも成立しない。どこがいいね、よくないねという対話がないと、設計が嫌いになってしまいますから、設計が好きだと思う学生を少しでも増やしたいという願いから始めたことです。

竹山・小見山研究室ゼミ風景
小見山——竹山研究室からお部屋を引き継いだ今、竹山先生が作ってくださった雰囲気を残した研究室運営を僕もしていきたいと思っています。
もともと僕は多くの人と何かを一緒につくりあげることが好きで、イギリスで働いていた時も、現地の友人たちと夜や週末に集まっては、自主ゼミのようなものを開いてコンペに応募したり展示に参加したりしていました。
今現在、僕は確かに、学生のみなさんに指導教員として接するという意味で「教育」をやってはいるのですが、どちらかというと学生のみなさんと何か一緒にやりたいという感覚のほうが強いです。僕が個人として設計する仕事ももちろんあるのですが、それとは別に、学生をはじめもっといろんな人たちとごちゃまぜになりながら何かを作っていきたいというモチベーションで大学にいるのだと思います。僕が考える研究室はそういう場所です。僕がこれまで経験したものから学生に何か教えるのであれば、すぐに僕の底が知れてしまうし、いま僕の中に既にあるものしか与えられません。
それでは足りないだろうと思っているので、僕自身も学びながら学生と協働して何かに向かっていく場所をつくりたいです。振り返ってみればそういう場所を竹山先生は作られてきたのだと僕は思っていますので、竹山先生の指導方法を基本的には真似しています。四回生夏学期のスタジオ課題を拡張して修士含めた研究室全体で取り組むプロジェクトにしたり、異分野との応答を大事にしたり、最終講評会には海外からもゲストを呼んで英語でのプレゼンテーションにも挑戦してもらったり。卒業設計や修士論文のゼミでも、僕が一方的に指導するのではなく研究室メンバー全員に発言してもらうことで、僕自身も多角的な視野を得ることができています。

イギリスで働いていた頃の自主ゼミ風景

小見山研究室の活動(国際ワークショップ)

小見山研究室の活動(竹山聖最終講義の展示準備)
竹山——小見山先生の、教えるということではなくてむしろ学ぶということを主眼に考えたい、というのは全く同意見で、僕はどっちかっていうと教えようと思ったことがあまりないんですよね。どうしても偉そうな言葉で何かを言ってしまうようなことになってしまうじゃないですか。大学の先生っていうのがいまいち釈然としなかったのは、そういうところで、一方的に上から下へこれはこういうことなんだっていうふうに教えるっていうのはちょっと違和感があったんです。
自由に発言しながら同じ立場に立って刺激を受けたり与えたりする、一緒に走ろうよって言って共に学ぶ、というスタイルをとってきたと思いますね。偉そうに教えようなんてするところから、自分の建築もダメになっていく。謙虚さとか発見がなくなっていくから。だから、小見山先生がそういうスタイルを目指していくっていうのは、もう全面的に賛成です。
馬を水飲み場に連れて行くことはできるけれど、水を飲ませることはできないっていう言葉がありますでしょ。つまり、学生にチャンスを与える、何か場を与える、ということはできるけど、そこで水を飲むのは馬であり学生です。つまり、自ら飲まないと何も学べないわけですね。無理やり水を飲ますということは僕にはできないし、無理やり飲まされた水は滋養にならないなと思うんですよ。
小見山——設計演習も、僕たちは課題を用意することはできますが、最終的にこうして欲しいという部分を決めたところでそのようにはならず、課題を読み解いてスタディしたり図面を引いたりすることは学生達本人にしかできません。
退任される直前に竹山先生は、建築造形実習の内容をそれまでの鉛筆画模写から製図ペンによる製図に変更されました。いまは僕が担当を引き継いで、最後に竹山先生が改組された内容を踏襲していますが、実はもう一つ参考にしているのが、竹山先生が最初に着任された時につくられた建築造形実習の元々のカリキュラムです。
当時竹山先生は、建築学科に入ったばかりの一回生に、まずは図面の読み方や建築写真の見方を指導した、と聞いています。それを取り入れた現在の建築造形実習は、毎回授業の前半は座学の授業にして教員やTAから建築図面の様々な表現方法を紹介し、後半は製図の実習にして学生自身が見つけてきた題材を読み解いて製図してもらうという方式にしています。
僕が担当を引き継いだ最初の年2020年度は、コロナ禍で製図室も閉鎖され、学生たちとはオンラインでしかコミュニケーションできない特殊な状況でした。製図も自分の家でやってもらいましたが、前年度に3週間かけて描いてもらっていた課題図面を、1週間でみんな描き上げてしまいました。特に春先はオンライン対応が間に合わず多くの授業が実施されない休講状態だったので、ほぼ唯一開講されていた建築造形実習にかけるエネルギーも大きかったのかもしれません。2週目は題材自体も自由に探して製図するよう伝えると、翌週学生たちは僕も知らなかったような建築まで見つけてきて、自分たちなりによく観察した上で、表現方法も様々な図面を提出してくれました。
その時、学生のやる気やモチベーションに蓋をしない教育をしたい、とあらためて思いました。こちらが決めた型にはめるのではなく、自身の中にあるものを自由に思いきり吐き出せるような課題設定を目指しています。
竹山——そうそう、聴き取る能力が大切なんですね。良い空間の響きを聴き取る力が。その先に空間を構想する能力が育っていく。
僕が思うに、学生達が一番きちんと身に付けておくべきことは、空間的なセンス。音楽でも演奏者や指揮者にとっては譜面が読めるだけではなく、そこに音楽を立ち上がらせることが重要で、作曲家はさらに音楽がかけないといけない。
建築に関しても同様に、図面をかけることは基本中の基本として、そこに空間を立ち上がらせるセンスを大学で見つけてほしい。僕らが図面に書くのは空間ではなくてモノの有り様ですよね。空間は図面に直接描けない。しかしモノとモノとの関係の中に空間は立ち現れる。流れていく。そう、空間は流れです。モノによってどのような空間が立ち上がって、どのように他者が流れていくか、他者というのは地形であったり光や風であったりするわけですが、それを想像できるようなセンスを育んでほしいと考えています。他者にしなやかに応答するセンスですね。
空間を構想するための下地になるもの、様々な他ジャンルの知恵、つまりウィズダムを得た時に、それを受け止めて広げられるだけの大きく豊かな土壌を持っている方がいい。
だから、ちまちまっと盆栽みたいに育ってうまく組織の歯車になるような人間は、京大の中に育てても仕方ないんじゃないかと考えています。歯車じゃなく全体を牽引する動力になっていくような人間こそが育って行ってほしい。みな、建築ってどんなものか分からないで京大に入ってくる。飛来してくる種みたいなものなわけです。そんな学生達の中に、すごい才能をもっている種がある。どんな風になるか分からなくても、できるだけいろいろな種が芽吹くような教育をしたいですね。
竹山 聖
建築家。
1954年、大阪府生まれ。1977年、京都大学工学部建築学科卒業、東京大学大学院工学系研究科修士課程進学。1979年、修士課程修了。1984年、博士課程退学。大学院在学中に設計組織アモルフを設立、主宰。1992年から2020年まで京都大学大学院准教授、教授を務める。
小見山 陽介
1982年、群馬県生まれ。2005年、東京大学工学部建築学科卒業。2007年、東京大学大学院工学系研究科建築学専攻修士課程修了。2007年から2014年まで、ロンドンのHorden Cherry Lee Architectsに勤務。2014年より株式会社 エムロード環境造形研究所勤務。2017年から2020年まで京都大学竹山研究室助教。現在、京都大学大学院工学研究科建築学専攻講師。
『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
BACK NUMBER
18
2017.10
インタビュー:五十嵐淳
interview:
project:
essay:
三谷純,奥田信雄,魚谷繁礼,
五十嵐淳
竹山研究室「脱色する空間」
竹山聖,大崎純, 小椋大輔, 布野修司,古阪秀三, 牧紀男,
Galyna SHEVTSOVA
17
インタビュー:野又穫
2016.10
interview:
project:
essay:
野又穫,松井るみ,石澤宰,柏木由人
竹山研究室「無何有の郷」
竹山聖,山岸常人,布野修司,三浦研,牧紀男,古阪秀三,川上聡
16
2016.1
interview:
project:
essay:
中野達男,石山友美,TERRAIN architects
竹山研究室「コーラス」
竹山聖,布野修司,大崎純,古阪秀三,牧紀男
特集:アートと空間
2014.1
14
interview:
project:
essay:
松井冬子,井村優三,豊田郁美,アタカケンタロウ
竹山研究室「個人美術館の構想」
竹山聖,布野修司,小室舞,中井茂樹
特集:建築を生成するイメージ
2015.1
15
ホンマタカシ,八島正年+八島夕子,高橋和志,島越けい子
ダイアグラムによる建築の構想
竹山聖,布野修司,大崎純,
古阪秀三,平野利樹
interview:
project:
essay:
20
2020.01
