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【インタビュー】 写真家 山岸剛

        

 現像された都市 モノ語りを聴く

聞き手:加藤安珠、中筋晴子、西田造
2021.9.9 Zoomにて

 

  人工と自然の力関係ーモノ語りー

ーー山岸さんの近著『東京パンデミック』では「モノ語り」というキーワードが出てきます。モノから人の振る舞いを読み解くという意味で使われていたと思いますが、あらためて「モノ語り」についてお聞かせください。

まず前提として、人間とは関係のない、人間的な関係性に入る以前の世界の在り方に、カメラによる知覚はアクセスすることができると考えています。カメラというのはまずは、端的に言って機械なわけです。これは写真の黎明期から言われていることですが、やはりカメラで見るということは、人間が見るということとはまったくちがう。人間は何かをするために知覚し、行動します。ある有用性のもとで、末端で知覚し、それを中央つまり脳で組織化し、行動に至る。しかしカメラは本来、そういうものとは無関係です。機械的な知覚であって、末端で知覚してそれでおしまい、中央/末端の回路もありません。つまり非中枢的で非選択的、無用な知覚であるといっていい。

 

たとえばハリウッド映画などに代表される映画においては、このカメラによる、本来非中枢的な、断片化した知覚のイメージを、人間的な知覚に模していくようにして繋ぎ、編集することで一連の線的な時間をこしらえていく。非中枢的な知覚を、あたかも人間が見ているかのようにいわば擬装して、それを繋げることで一つの人間的な物語=ナラティヴをつくっていく。でもそもそもカメラによる知覚は、人間の知覚とか、人間の認識や行動とは何の関係もないものです。ただの機械ですから、もっと直接的で即物的。

 

だからカメラによる知覚を、人間的なものに飼い慣らしていく罠をくぐり抜ければ、(現在の)人間的なものに絡めとられる前の、もっと野生的で、酷薄な世界の在り方にアクセスできる。私の写真は「人がいない」とよく言われますが、それは人間をことさら意識して排除しているわけではなく、カメラによる知覚の形式そのままに、人間のみを特筆してとらえていないだけです。よく見れば人間もいますよ、主人公じゃないだけで。人間も、建築物や動物や昆虫やらと同等に写っていてほしい、というか少なくともカメラの前では当然にみな平等で、それぞれ異質で、それらがある関係をもって存在しているわけです。

 

私は、「モノ語り」の「モノ」を、「物質であって物質以上のもの」というニュアンスでカタカナを使っています。感傷的で思い入れたっぷりの、過剰にヒューマンな「物語」より、カメラが即物的に捉えた「モノ」としての風景が語る「モノ語り」の方が、よっぽど克明に、そして冷徹に、動物としてのヒトを、人間の内なる「自然」を見せてくれるのだと考えています。

ーー山岸さんの言う「モノ」とはどのようなものなのでしょうか。

物質であって物質以上のもの。物の怪(モノノケ)のモノ。幽霊じゃなくて妖怪だ、なんて書きましたが、いったい何でしょうね……(笑)

例えばこの写真【写真1】は『東京パンデミック』の冒頭に載せた写真ですが、これだと「モノ」の含意を言葉にしやすいかもしれません。これはいわゆる「寄り物」、漂流物ですね。城南島という東京湾の南端に浮ぶ人工島に、台風か何かで流れ着いた、それは見事な木の塊でした。異界から意図せずして届けられた、異物としての贈り物。海という自然、異界からやってきたモノが、ある日、人工の大地に贈り物として届けられた。それ自体はただの物質なんだけれども、人工性の集積である都市へ、自然という「向こう」側からやってきて、「向こう」側の何がしかを人間に伝える、たんなる物質以上の贈与物。

 

ちなみにこれは本にも書きましたが、「むこう」という言葉の語根には「むかし」、昔ですね、があるそうです。「むかし」は、物理的な過去をあらわす「いにしえ」とはちがって、まさに「向こう」からやってくる。夢やモノ語りや昔話のように、人間がコントロールするすることのできない「向こう」から、期せずしてやってくるものです。そういう意味では、モノというのは自然そのものである、と言っていいのかもしれません。人間の意図を超えた、人間がつくることのできないものとしての自然、その何たるかを人間に伝えるモノ。

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写真1 2020 年1 月29 日、大田区城南島、城南島海浜公園

少し前に『東京パンデミック』の刊行記念イベントで、文化人類学者の今福龍太⁷さんと対話させていただきました。その時「モノ」について、今福さんがとても刺激的な話をして下さいました。今福さんが長年通われている、沖縄や奄美で聞き取りをされた時のお話です。われわれのように、概念語で考える習慣を身につけた人間は、「憲法(Constitution)」という言葉から何らかのイメージをつかむことができます。そしてこうした言葉から、たとえば「自由」や「平等」といった抽象的なことを考えたり、それをもとに行動することもできる。

しかし、沖縄や奄美の人々にとっては、もちろん十把一絡げにそういうのではありませんが、憲法という概念語は、端的に言って、生きられていない。自分たちの生活を左右するようなものとしては存在していない。そこで今福さんは、彼らにとって「憲法」に匹敵するものはあるのか、あるとすればそれは何なのかを尋ねてまわったそうです。いわば「憲法」を言い替えていく、すると何になるのかを聞いていった。そして、紆余曲折あって出てきた言葉が「ムン知らせ」という言葉だったそうです。「ムン」というのは沖縄では「モノ」という意味です。私たちも「ものの知らせ」と言いますが、ちょっとニュアンスはちがっていて、例えば「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかいうように使われる。

 

河川のほとんどない奄美の島々では、降った水が大地に浸透して、地下の珊瑚層に溜まり、そこから水を汲み上げて生活する。だから水の存在は決定的に重要で、水のあるところに人が集まり、集落が出来る。水は恵みをもたらすし、もちろん悪さもする。悪さというのも、われわれが言うところの「災害」とは、やはり少しニュアンスがちがうと思います。そういう自分たちの生活する世界の秩序が書き込まれたムンすなわちモノとして、水があるというのです。それを「ムン知らせの水」とか「水のムン知らせ」とかいう。人間だけにとどまらない、世界全体を律する理(ことわり)が書き込まれた、抽象かつ具体のモノ=ムン。憲法を言い替えていくとモノになる、というのは、聞いて私も興奮しました。「憲法」がわれわれにとっていかなるものであるべきかを、強く考えさせます。

 

だから、この流れ着いた木の塊も受けとめ方によっては、まさにそのような「モノ」となりうる。もっといえば、建築物という人間がつくったものでさえも、たとえば使い込んでいくなかで、あるいは廃墟になって、ある閾(いき)を超えて、そういった「モノ」になる、それこそ化けていく可能性があるのだと私は思っています。それは、物質であって物質以上で、そこには自分たちの生活を律してくれる筋道が書き込まれている。だから「モノ語り」というのは、人間が主体的に、声高に主張するものではさらさらなく、「ムン」あるいは「モノ」を受けとめて、そこに書き込まれている理(ことわり)を謙虚に読み取り、書き出していくべきものだと思います。そしてそれは半ば以上は受動的な事態で、先ほどの写真というメディウムの特質とも響き合うものではないかと思います。

                    ​・・・・・・・

ーー建築物でさえも自然を媒介する「モノ」となりうる、ということですが、山岸さんにとっての建築とはどのようなものでしょうか。

建築が撮れた、という強い実感をもつに至った写真を2点挙げます。

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写真2 2011 年5 月1 日、岩手県宮古市田老野原

これは2011年5月に東北で撮った写真です【写真2】。津波被災後間もない岩手の沿岸部、宮古市の田老という場所です。東北地方太平洋沿岸部を継続的に撮影する以前は、主に東京で仕事をしていました。当時、建築写真や建築そのもののあり方に強い疑問をもっていました。東京にはあらゆる種類の建築物が林立していますが、それらの人工物は「人工性のための人工性」のなかで自閉していると思われてなりませんでした。そんなときにこの写真にあるような光景に出会って、何か吹っ切れたような、清々しいような気持ちになった。建築という人工性が、それが真に向かうべきもの、すなわち「自然」と正しく向かい合っている。植物が太陽に向かうように、建築という人工性が自然に向かっている。その底の抜けたような健康さに感動しました。この写真がなければ、その後の9年間、東北に通いつづけることはなかったと断言できます。

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写真3 2010 年4 月6 日、「森山邸」

もう一枚は2010年に撮った、西沢立衛⁸さん設計の「森山邸」の写真です【写真3】。これは「田老」の写真より以前に撮影したものですし、いわば「平時」の写真ですが、この2つの写真は相通ずるというか、たがいに響き合うものとして私にはあります。

 

基本的に建築というのは統合していくというか、コントロールしていく技術だと思うのですが、この「森山邸」という建築物はむしろ逆に、場をアナーキーなものに開いていくというか、コントロールできないものを露わにするというか、そんな野生的な、ほとんど獰猛といっていい感じがあります。誤解なきように急いで付け加えますが、もちろんこの建築はきわめて秩序立った作品であって、ここに佇んで時を過ごすと、私はいつも身体全体で多幸感さえ覚えます。だからこの建築作品が統合されてないとかそういう意味ではまったくありません。そうではなく、アナーキーなものに場を開くとか、コントロールできないものを露わにするというのは、私の言葉でいえば「自然」ということです。「森山邸」という一つの建築すなわち人工物が、東京において、人工物で埋め尽くされた東京において、「東京の自然」をあたらしく創り出した。「人工性のための人工性」のなかで自閉しているかの東京に、この建築物が置かれることで、あたらしく「都市の自然」という概念を創造した。その感じが、この写真で撮れた、というかこの写真を見て、そんなことを考えるに至りました。これも私にとって、とても大切な写真です。

       ・・

ーー山岸さんはこのようないわゆる建築スケールの写真だけでなく、ディテールレベルから、都市スケールまで幅広いスケールで写真を撮られています。「人工的な力と自然の力関係」を撮ることと、山岸さんの作品のなかに様々なスケールがあらわれることは関係しているのでしょうか。

私はすべての写真において「人工性と自然の力の関係性」、その界面をこそ扱っているつもりです。写真をはじめたころは、いわゆる風景写真を撮っていたわけです。そういう写真って、前景中景後景じゃないけど、画面のなかに距離感のレイヤーがあるわけですね。一方でいわゆる建築写真のような写真は、これを撮ってます、という明白な対象すなわちオブジェクトがはっきりしている。だから距離感が一定している、あるいは単一です。そうしたスケールの異なる二種類の写真は、両立できないのだと考えていました。つまり、例えば展示をするときなど、両者を並べても共存しない、やっぱりスケールがちがう写真はどちらか一方を外さないと上手くいかないのだと考えていた。でも風景を受けとめる実感からすれば、成立しないのはやはり自分の写真がおかしいのだ、とも考えていた。

 

建築物単体、土木的な風景、都市の全体、人間のいる近景など、ことなるスケールの写真を同じ写真として等価に扱えるようになったのは、やはり2011年の震災以降だと思います。その時に自分は風景そのものというより、一段抽象度の高い、力の関係性こそを見ているのだと気付きました。つまり「被災」とか「復興」ではなくて、風景にあらわれる人工性と自然の力の関係性ですね。こういった「関係」性からすれば、遠いも近いも、大きいも小さいも問題ではなくなって、いわばスケールレスになる。写真の見方が、写真に写っているものそのものというより、その力の「関係」という、ロジカルタイプの一つ高い話になる。だから実際写っているもののスケールは背景に退く。

『traverse 新建築学研究』は京都大学建築系教室が編集・発行している機関誌です。17年度より紙媒体での出版を止め、web上で記事を発信していく事となりました。
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